竪穴式住居

日本最古のお酒は、「日本酒」ではなかった!?

お酒をグラスにつぐ(もっきり)

日本で一番初めに造られたお酒といえば、皆さんはどんなお酒を想像するでしょうか?

「やっぱり、お米で造られた日本酒でしょう?」と考える人が多いのではないかと思います。実際のところ、私自身もずっとそうではないかと漠然と思いこんでいました。

しかし、実は、日本最古のお酒は「日本酒」ではなく、なんと「ワイン」なのです

その証拠が、縄文時代中期(B.C. 4000~3000年頃)のものと思われる、高さ51cmという大型の酒壺土器。長野県の八ケ岳山麓にある藤内遺跡で発見された「半人半蛙文有孔鍔付土器」(はんじんはんあもんゆうこうふちつきどき)と呼ばれるもので、国の重要文化財に指定されています。

どうしてこの壺が酒造りに使われていたことがわかるのかというと、理由は2つあります。

1つめの理由は、この壺の口の縁に18個もの穴が開いていたということです。アルコールを発酵するときにはガスが生じるので、このガスを抜くための穴と考えられます。

そして、2つめの理由は、壷の中にはヤマブドウの種子が付着していたことです。これらこそが、この壺の中で、ヤマブドウがもともと持っている糖分を、自然の中に存在していた酵母がアルコール発酵し、ワイン(果実酒)が造られていたことの動かぬ証拠なのです。

ちなみにこの壺は、「半人半蛙」とあることからもわかるように、蛙と人間の間にできた子を思わせるような姿をした精霊のモチーフが施されており、そのユニークなデザインも特徴です。現在、長野県諏訪郡富士見町にある井戸尻考古館にて収蔵されています。

 

『魏志倭人伝』でひも解く、日本人と酒の歴史

たくさんの陶器が置いてある様子

日本人が飲酒をしていたことが記されている最古の文献は、日本で言えば弥生時代後期にあたる3世紀に、中国で書かれた『三国志』の中のひとつ『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)です。

この『魏志倭人伝』は邪馬台国に関する記載があることで有名ですね。学校で歴史の授業のときに覚えさせられたという人は多いでしょう。

その『魏志倭人伝』の中に、倭人(日本人)は、「葬儀の際に弔問客が歌い踊って酒を飲んでいた」とか「父子男女にかかわりなく酒をよく飲んでいた」といった、お酒に関係する記述を見つけることができます

ただし、それがお米で造られたお酒なのか、それとも他の穀物や果実から造られたお酒なのか、はたまた液体なのかお粥状のものなのかなど、詳しいところは残念ながらわかっていません

邪馬台国を統率していた女王・卑弥呼は、神と対話して、その神の声を民に伝えるシャーマンでした。とは言っても、超能力者だったというわけではなく、実はお酒の力を介在させていたという話を、『日本史がおもしろくなる日本酒の話』(上杉孝久著、サンマーク出版)で読んだことがあります。

お酒で酔っぱらって意識が昂揚した状態の卑弥呼の様子が、まるで神が乗り移っているかのように見えたのかもしれません。

この『日本史がおもしろくなる日本酒の話』の著者の上杉孝久さんは、なんと越後の虎という異名を持った越後の軍神・上杉謙信や鷹山を先祖に持つ、上杉子爵家の9代目当主です。

本史を日本酒という観点からとらえ直した貴重な本で、上杉謙信をはじめとする歴史上の偉人と日本酒にまつわるエピソードがたくさん紹介されています。

日本酒が好きな人も歴史に興味がある人も、たいへん興味深く読むことができるでしょう。

 

日本酒の起源は「口噛み酒」

徳利とおちょこと稲穂

それでは、お米で造られたお酒は、いったいいつ頃誕生したのでしょうか。

日本酒の起源については諸説ありますが、もっとも有力とされている説が「口噛み酒」です。この口噛み酒については、713年以降に書かれた『大隅国風土記』(おおすみこくふどき)で記されています。

その中で、村の男女が集まって、噛んだ生米を容器に次々と吐き出し、一晩以上の時間をかけて酒を醸していた様子が記載されています。このやり方を「口噛み酒」と呼びます。

唾液の中にある糖化酵素・アミラーゼが、お米に含まれるデンプンを糖分に変える働きをするのです。そしてその糖分を、空気中に存在する野生の酵母がアルコール発酵することで、お酒が出来上がる、という仕組みです。

この口噛み酒の技術は、稲作文化が中国大陸より伝わった弥生時代(B.C. 300~A.D. 300頃)に始まったと考えられています。

しかし、近年では、縄文時代後期にはすでに稲作は始まっていたという説も有力ですので、そうなると縄文人は口噛み酒を飲んでいたかもしれませんね。それにしても、この時代の人は、科学的な根拠は知らなくても、唾液には糖化作用があることを経験則で理解していたとは驚きです。

ちなみに、硬いお米を噛み続けていると、こめかみの部分が痛くなってきますが、この「こめかみ」は、「米噛み」に由来しているのです。また、お酒を造ることを「醸す」(かもす)と言いますが、この語源は「噛む」から来ていると言われています。

口噛み酒は、2016年に大ヒットした名作アニメ映画『君の名は』でその存在を知ったという人も多いのではないでしょうか。

主人公の一人である女子高生、宮水三葉が実家の神社の巫女として、伝統的な酒造りである口噛み酒を人前で披露しているシーンは、初めてその製法を知った人にとっては、かなりのインパクトがあったことでしょう。

また、アニメ化やドラマ化もされた、農大を舞台にした人気漫画『もやしもん』(石川雅之著、講談社)でも、男子学生がお金儲けのためにこっそりと口噛み酒を造っているところが描かれていました。

 

神話の中の日本酒

テーブルでコーヒーを飲みながら神話の中の日本酒と話す女性

さて、古代のお酒については、いろいろな日本神話でも書かれています。

その中でも、もっとも古いお酒にまつわる神話は、8世紀初めに成立したと言われている『古事記』に出てくる、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治するお話です。

乱暴狼藉を働いたかどで神様の国タカマガハラを追放されたスサノオノミコトは、出雲国の鳥髪(とりかみ)という地にたどり着きます。そこで、人間を食らう大蛇ヤマタノオロチを退治するため、「八塩折(やしおり)の酒」を用意するという一計を案じました。

ヤマタノオロチがさんざんに酔っ払って寝てしまったところをやっつけた、というストーリーはとても有名ですよね。

「八塩折」の「しおり」とは、酒を醸すという意味の動詞「しおる」が名詞になったものです。その「しおり」の前に「八」が付いているので、このお酒は「何度も繰り返し醸造した、アルコール分の濃いお酒」だと解釈されています。

ヤマタノオロチの退治話の舞台となった島根県には、この八塩折の酒にちなんで造られたお酒があります。「國暉(こっき)酒造」がなんとしても再現してみたいと長年にわたって懸命に取り組み、ようやく誕生させた「八塩折之仕込」というお酒です。

しぼっては仕込み、しぼっては仕込みという作業を8回も繰り返して造られました。濃厚で甘みの強い味わいで、食前酒やデザート酒として楽しむのにピッタリだそうです。

ヤマタノオロチのように、ぐでんぐでんになるほど酔っ払いすぎない程度に味わってみてはいかがでしょうか。

 

古墳時代~飛鳥時代(3世紀~7世紀頃)

二体のはにわ

この時代になると、お酒造りは日本各地へと広まっていきました。

『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』、『風土記』など、さまざまな文献に、お酒についての記述を見ることができます。また、この頃は、お酒は神々や天皇に捧げる特別かつ神聖な飲み物だという意味合いが強かったようです。

『古事記』や『日本書紀』には、天皇とお酒にまつわる記述が非常に多く(『古事記』には応神天皇が酔っ払ったときの話なども記載されています)、5世紀以降の天皇に関して書かれている内容のなんと70%近くが、お酒ネタなのだそうです。

これらの文献では、お酒は「サケ」とも呼ばれていますが、もっとも多い呼び名は「ミキ」です。そのほか、「ミワ」「クシ」「キ」などという言葉も使われていました。

このうち、「クシ」は「薬」(くすり)の古語と同じです。飲むと人の気持ちがやわらぎ気分がぱあっと明るくなることから、薬として扱われていたのでしょう。

また、「ミワ」は奈良県桜井市三輪町にある酒の神様・大神(おおみわ)神社の「味酒(うまざけ)の神酒(みわ)」に由来するものです。

これらの言葉の中で現代でもかろうじて残っている言葉は「ミキ」くらいで、神様にお供えする酒を「御神酒」(おみき)と呼んでいますね。

ところで、飛鳥時代に入ると、朝廷でおこなわれる酒宴の回数が、古墳時代の約4倍にも跳ね上がったそうです

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った蘇我氏打倒に端を発する大規模な政治改革「大化の改新」をはじめとするような、歴史的な政治事件が増えてきた時代です。

酒宴は、天皇や大臣たちが、国家の諸問題について議論をする重要な場だったのかもしれませんね。

 

奈良時代(710~794年)

東大寺大仏殿

奈良時代には、麹による酒造りが本格的に普及するようになりました。麹を使った醸造技術は、中国から伝わったと一般的に考えられています。その証拠となるのが、『古事記』です。

百済から帰化した須須許里(すすこり)という人物が、中国で開発された「加無太知」(かむたち)を使ってお酒を造り、天皇に献上したという記述があるのですが、この加無太知こそが麹なのです。

この時代は、律令制度が施かれて中央集権的国家が確立した時代です。その律令制度では、宮内省の中に「造酒司」(さけのつかさ/みきのつかさ)という役所が設けられました

造酒司は、宮中で使用するお酒や、醴(あまざけ)、お酢などを造る役割を担うところです。つまり、お酒を造ることは、国家の仕事の中に組み込まれていったのです

こうしてお酒は一般の人々から離れて、朝廷のためのお酒の醸造体制が整えられ、酒造りの技術はどんどん進歩していきました。

この当時、朝廷や貴族たちは酒宴を催す機会がとても多く、そのため、造酒司の存在の重要性は非常に高いものでした。

造酒司の中でお酒の醸造実務を担当する役職のことを「酒部」(さかべ)と言い、その定員は60人にも及びました。造酒司のトップである長官「造酒正」(さけのかみ/みきのかみ)の相当官位は正六位上とされ、有力な高官でなければ就くことのできないエリート職だったようです。

ちなみに、この頃のお酒は、米粒がかなり残った状態の濁ったお酒が多かったそうです。このお酒のことは「濁醪」(だくらう)と呼ばれていました。この「だくろう」が訛って、今の「どぶろく」に転化したと考えられています。

朝廷がお酒造りを国家の事業と位置付けていたこの時代、当時の庶民にとってはこの濁り酒もそうそう飲むことはできなかったようです。

そんな庶民がお酒を飲むことができた貴重な機会のひとつが、「直会」(なおらい)でした。「直会」とは、神事が終わった後におこなう宴会のことです

神前にお供えしたお酒や穀物を、神職をはじめ参列者の人々がともに分かち合い、神様の前でいただくのです。神様と同じものを人がいただく共食によって、神様と人とが一体となることが、直会の根本的な意義とされています。

この直会は、夕方から翌日の朝まで長時間にわかって開かれていました。庶民も、このときばかりは日頃口にすることがあまりないご馳走やお酒を、延々と食べたり飲んだりすることができたのですから、さぞ幸せなイベントだったことでしょう。

ちなみに、今でも神前での結婚式のときには三三九度をしますが、このあとにおこなう披露宴が直会にあたります。

神様にお供えした物を頂くということは、現在でも重要な儀礼として残っています。それは、宮中において毎年11月 23日に開かれている行事、新嘗祭(にいなめさい)です。

新嘗祭とは、その年の稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する祭儀で、古くから途切れることなく続いています。この新嘗祭では、天皇陛下が新穀を神様に捧げ、またご自身も召し上がることになっています。

ところで、こういった直会などのイベントのとき以外は、庶民は、主に酒粕をお湯で溶いた「槽湯酒」(かすゆざけ)というアルコール度数の低いお酒以外はなかなか口にすることはできなかったと言われています。

この「槽湯酒」は、『万葉集』に収められた『貧窮問答歌』(ひんきゅうもんどうか)の中でも触れられています。『貧窮問答歌』は、遣唐使を務めたこともある山上憶良(やまのうえのおくら)が筑前守であった頃詠んだもので、貧しい者とそれよりもさらに貧しい者とが、問答の形式で生活の苦しさを述べ合ったものです。

貧富の格差がひどく、農民は過酷な税の取り立てに苦しみ、上等なお酒など手の届かない存在だったことがうかがわれます。毎日のように晩酌したり居酒屋で飲んだりすることができる現代に生まれた私たちは、本当に恵まれているのですね。