大阪城

戦国・安土桃山時代(1493~1600年)

戦国・安土桃山時代の武将の銅像

~「地酒」の台頭~

1467(応仁元)年~1477(文明9)年の間、日本史上最大の内乱である「応仁の乱」が11年もの長期にわたって続きました。

将軍家と有力大名家のそれぞれの跡継ぎ問題が絡んで二大陣営となって戦い合ったものの、結局両陣営ともにほとんど何も得ることなく終わった戦いです。主戦場であった京都は全域で甚大な被害を受け、焦土と化してしまいました。

幕府や朝廷の権威や信頼が失墜していく中、各地の大名たちは自身の勢力の維持や拡大を図り、武力を行使した実力主義で成り上がる戦国武将が増えていきました。食うか食われるかの下克上が日常茶飯事の戦国時代の始まりです。

全国的な群雄の割拠は、地方の文化の独自性を高めるきっかけにもなりました。お酒も同様で、それまでは京からは「田舎酒」とも呼ばれていた地方で醸すお酒が台頭してきました。いわゆる「地酒」の誕生です。

商品の流通が活発になり、地酒は京都にも進出。京都の造り酒屋と競うようになっていきました。

当時の地酒の代表的なものとして、「西宮の旨酒」、「加賀の菊酒」、「伊豆の江川酒」、「河内の平野酒」、「博多の練貫(ねりぬき)酒」などが挙げられます。

「菊酒」の名前の由来については、諸説あります。菊酒の仕込み水に使われていたのは手取川の伏流水なのですが、手取川の上流には、昔から多くの野生の菊が群生しており、その滴を受けて流れる手取川の水のことを「菊水」と呼んでいたから、というのが有力な説のひとつとされています。

また、「練貫酒」とは、もち米で仕込み、もろみを石臼ですり潰して造ったお酒です。練り絹のような照りを持ち、ペースト状のトロリとしたテクスチャーで、味わいはかなりの甘口タイプ。京の貴族に珍重され、戦国大名の間でも人気が高かったそうです。

戦国大名の代表格と言えば、なんと言っても豊臣秀吉。農民出身にもかかわらず、織田信長のなしえなかった天下統一を果たした人物です。

その秀吉が、亡くなる数か月前の1598(慶長3)年に京都の醍醐寺で催した「醍醐の花見」については、前にも触れましたよね。

豪華で派手なものを好んだ秀吉らしく、1,300人もの客を招いて開いた大宴会です。その招待客のほとんどが女性だったそうですが、女好きで知られる秀吉らしい趣向ですね。

この天下の大宴会を盛り上げるために、秀吉は全国から多種多様な銘酒をたっぷり集めて客に振る舞いました。先ほどご紹介した加賀の菊酒や練貫酒、江川酒などもこの会で供されたという記録が残っています

「醍醐の花見」以前の花見は、文字通り、「花を見ること」。桜の花だけを静かに愛でるというものだったようです。

それに比べて、今の私たちのお花見と言えば、お花を見ることよりも、お酒を飲んで大勢でワイワイ盛り上がることに主眼を置いているケースが多いですよね。

この、21世紀の現代にまで続くお花見スタイルの始まりとなったのが、「醍醐の花見」だと言われています。

余談ですが、秀吉はあんまりお酒が強いほうではなかったようです。自分が飲むということよりも、振る舞った全国の銘酒を客たちが喜んで飲んでいる様を見て、自らの栄華ぶりに酔いしれていたのかもしれません。

~寺院勢力の弱体化に伴い、僧坊酒が滅亡~

平安時代より長きにわたって高い人気と評価を誇っていた僧坊酒が衰退していったのもこの頃です。その引き金となったのが、権力者たちにより進められた、強大化を続ける寺院勢力の弱体化です。

その中でも最たるものが、織田信長による「比叡山延暦寺の焼き討ち」でしょう。この当時の延暦寺は、あまりにも規律が乱れ、腐敗しきっていました。

僧侶たちの多くが堕落し、禁じられている肉食をしたり、寺に女性を連れ込んだりしていたのです。さらに、強力な武力を誇った僧兵を数千名も抱え、街道に勝手に作った関所から通行税を巻き上げて流通を阻害するなど、まさにやりたい放題の状態でした。

しかし、当時の社会では僧侶を敵に回せば仏罰が当たると考えられており、誰も手を出せないままだったのです。これでは増長しますよね。

これを潰しにかかったのが、織田信長です。信長は仏罰など信じない合理的な考えの持ち主でした。

まず、自由な商売と流通を促すため「楽市楽座」という政策を掲げました。関所も通行料も廃止したことで、経済活動は活発化します。お酒の流通も促進され、全国各地にどんどん広がっていきました。

この「楽市楽座」によって、比叡山延暦寺など大寺院は、次第に経済的に干上がっていきます。そして、とどめが「比叡山延暦寺の焼き討ち」です。この焼き討ちにより、女子供に至るまで3,000~4,000人もの人間が容赦なく殺されました。

叡山からは、4日間にわたって黒煙が上がり続けたそうです。こうして、寺院勢力は急速に衰退の一途をたどり、隆盛を極めた僧坊酒も影を潜めていきました

~焼酎造りの原形が誕生~

また、この時代には、異人によりもたらされた新しい文化とともに、日本に蒸留器や蒸留技術が伝来しました。これにより、琉球(現在の沖縄)や南九州地方で蒸留酒(焼酎)が造られるようになりました

ちなみに、日本の文献に「焼酎」という文字がはじめて登場したのは、桶狭間の戦いの前年である1559(永禄2)年。鹿児島県大口市の郡山八幡神社の屋根裏の木札に書かれた落書でした。

どんなことが書かれていたかと言うと、神社の建築工事を終えた大工たちが、期待していた焼酎を振る舞われなかったことに憤慨し、座主はなんてケチなんだ!と愚痴っている内容だそうです。仕事をやり終えた後の一杯を、さぞ楽しみにしていたのでしょうね。

ところで、この時代のもっとも有名な異人と言えば、フランシスコ・ザビエルですね。はるばるポルトガルからキリスト教の布教にやってきた、イエズス会の宣教師です。

その姿は、歴史の教科書でもおなじみですよね(特に髪型が)。実は、日本酒を最初に飲んだ西洋人は、このザビエルだと言われています

ザビエルは、島津貴久や大内義隆などの大名に、チンタ酒を献上したという記録が残っています。チンタ酒とは、赤ワインのこと。

ポルトガル語では赤ワインのことを「vinho tinto」(ヴィーニョ・チント)と言いますので、そのポルトガル語に由来する言葉なのでしょう。

ちなみに、日本で最初にワインを飲んだ人物は織田信長だという説がありますが(ドラマやアニメなどでも信長が赤ワインを飲んでいるシーンがよく見られます)、実は彼はお酒よりも、甘いものが大好物だったそうです。

宣教師から金平糖がたくさん入った瓶やバナナをもらって大喜びだったというエピソードも残っています。

残忍な言動で知られ、自ら「第六天魔王」と名乗ったあの信長が、相好を崩して金平糖を頬張っている光景を想像するたびに、その意外性とギャップに思わずほくそ笑んでしまいます。

ともあれ、日本酒だけでなく、焼酎やワインなども日本に伝わり、さまざまなバリエーションのお酒を味わえるようになったわけですね。飲兵衛にはたまらない時代の幕開けです。

 

江戸時代(1600~1867年)

酒蔵の3つの酒樽

~今日の日本酒造りの原型が、ほぼ完成~

① 四季醸造から、冬に醸す寒造りへ

江戸時代初期の頃までは、四季を通じて日本酒が造られていました。新酒(しんしゅ)、間酒(あいしゅ/あいざけ)、寒前酒(かんまえざけ)、寒酒(かんしゅ/かんざけ)、春酒(はるざけ)と1年間に計5回も仕込まれていたのです。

しかし、まだまだ醸造技術のクォリティが十分ではなかった時代であり、暖かい季節には発酵途中のもろみが腐ってダメになってしまうことも多くありました。

そこで、貴重なお米を大量に失ってはたまらない江戸幕府は、冬期以外の醸造を禁止する「寒造り令」を出します。このお触れにより、秋の彼岸から春の彼岸までしか酒造りはできなくなりました

寒い冬期は、微生物の活動も弱くなるため、長期発酵が可能となり、きめ細やかで優れた風味の酒質に仕上がります。また、冬は農閑期であるため、造り手である農家の労働力を確保しやすい時期でもありました。

現代は空調技術が飛躍的に向上したこともあり、一年を通じて酒造りをする酒蔵も増えてきましたが、それでも多くの酒蔵は冬期を中心に酒造りをおこなっています。特に大吟醸酒などは、冬期に造られることが多いとされています。

② 段仕込みの一般化

日本酒のもろみを仕込むときは、「3段仕込み」という製法を用いるのが一般的です。

3段仕込みとは、もろみを仕込む前に造っておいた酒母をまずタンクに入れ、その後に、麹・蒸米・水を4日間で3回に分けて入れる手法のことを言います。

どうして1回ではなく3回に分けて仕込むのかというと、それは、「安全な酒造り」をおこなうため

3回に分けることで、日本酒造りに悪影響を及ぼす微生物からもろみを守ることができるというわけです。この段仕込みという方法が一般的になったのが、この江戸時代なのです。

現代のほとんどの酒蔵は、この「3段仕込み」という手法を使って日本酒を造っていますが、4段、5段、6段とさらに仕込み回数を増やして造るケースもあります。

中には、驚異の「10段仕込み」というものも。それは、大関株式会社(兵庫県)の「大関 純米大吟醸 十段仕込」です。

通常の日本酒の2倍以上もの手間と時間をかけて造られており、濃厚で深い奥行きを感じさせる甘味の味わいに仕上がっています。

③ 火入れの定着

先にも触れた「火入れ」が定着したのも江戸時代です。火入れとは、お酒を低温で殺菌すること。60~65℃くらいのお湯で、間接的に30分ほど加熱します。

お酒の中に残った酵素の働きを止め、お酒の香りや味わいを損なう余分な菌を殺すためにおこなうものです。

この低温殺菌法を「発見」したのは、フランスの細菌学者パスツールであるとされ、発見者の名前を取って低温殺菌のことはpasteurization(パスツライゼーション)と名付けられました。

しかし、日本ではその発見からさかのぼること数百年も前から、この手法が使われていました。

この火入れがさらに広まり一般化したことで、日本酒の保存性は高まり、安定した酒質の日本酒を造ることができるようになったのです。

④ 杜氏集団の形成

寒造りの確立にともない、江戸時代には、冬の期間だけ出稼ぎをして日本酒を造る技能集団「杜氏(とうじ)制度」が誕生しました。

冬の間は、雪のために米の栽培ができない農民や、海が荒れて漁ができない漁師たちが、冬にやれる仕事を求めてお酒造りに従事するようになったのです。

特に、お米を作る農家の人間は、いわばお米のプロ。日本酒の原料であるお米を知り尽くしているわけですから、酒造りにはピッタリですね。

「杜氏」とは、酒造りの責任者のことを言います。そして、その杜氏のもとで働く人間は「蔵人」(くらびと)と呼ばれます。

この杜氏たちは、経験と勘を積み重ねていったことによって、高い技術や複雑な手法を次々に編み出していきました。そして次第に、それぞれの気候風土に合った、独自の酒造りの流儀を持つ「杜氏集団」が各地で形成されていったのです

今も残る多くの杜氏集団の中でも、南部杜氏(岩手県)、越後杜氏(新潟県)、但馬杜氏(兵庫県)、能登杜氏(石川県)は、「日本四大杜氏」と呼ばれています。

もっとも多くの杜氏を抱えているのが、南部杜氏。次いで、越後杜氏です。越後杜氏はとても勤勉で粘り強く、優れた技術と品質に対して強いこだわりを持っているのが特徴です。

日本一の酒蔵数を誇る酒どころ・新潟県の酒造りを現在に至るまで支え続けています。

~伊丹酒の隆盛による、澄み酒(清酒)の大衆化~

1600(慶長5)年、諸白造りが改良されました

麹米(米麹を造るために使用するお米)も、掛米(蒸した後に冷まされて、直接もろみに仕込まれるお米)も精白して造られる諸白は、現代の清酒に近い、透明で雑味のないお酒のことです。

非常に貴重な高級品であったため、有力な貴族などの特権階級以外はなかなか口にする機会はありませんでした。

しかし、この諸白を大量かつ効率的に造る製法が伊丹で開発されたのです。これで、にごり酒ではない澄み酒(清酒)が、ようやく一般庶民の手にも届くようになっていきました。

これらは「伊丹酒」と呼ばれ、アルコール分の多い辛口の酒でした。評判が評判を呼び大変な人気を博し、「菱垣廻船」(ひがきかいせん)や「樽廻船」(たるかいせん)などで、大坂から江戸まで大量に輸送されました

「廻船」というのは江戸時代の海上輸送船のことです。「菱垣廻船」は、木綿や油、綿、醤油などの輸送していた船です。船の左右にある囲いの部分に、装飾として木製の菱組格子が組まれていたことから、その名がつけられました。

また、「樽廻船」は、酒樽だけを輸送した船です。樽廻船は、安い運賃でより早く積み荷を輸送することが出来たので、次第に菱垣廻船にとって代わるようになりました。

いずれも学校の歴史の授業で習ったことがあるのではないでしょうか。

また、幕府領であった伊丹が1661(寛文元)年に近衛家の領地となったことも、伊丹酒が隆盛を極めた要因のひとつと考えられています。

近衛家は、貴族藤原家の流れをくむ公家で、五摂家筆頭という超名門です。その近衛家が、「伊丹酒」を手厚く庇護したことで、発達が加速したのです。

~「くだらない」の語源は、伊丹酒にあり?~

面白みのないことや、価値のないもののことを「くだらない」と言いますよね。実は、その語源は日本酒から来ているという説があるのをご存知でしょうか。

当時は、京都や大坂など上方へ行くのが「上り」とされ、江戸に行くことは「下り」と呼ばれていました。現在とは反対の言い方をしていたわけです。

なので、伊丹など上方から江戸に送られた日本酒は、「下り酒」と呼ばれていました。江戸に下ってもこないような日本酒は、「下り酒」とならなかったものを指していったことが、「くだらない」の語源となったのだと言われています。

それほど、「下り酒」は江戸の人々を魅了したのですね。ちなみに、当時の「下り酒」の出荷量から算出すると、1人あたりの消費量は、なんと1年間で約4斗(一升瓶で40本分)にも上ったそうです。月に換算すると、一升瓶で3本以上。今では考えられないほどのすごい量です。

その後、「下り酒」の中心地は、伊丹から灘へ移っていくようになりました。現在の兵庫県西宮市と神戸市東灘区・灘区のあたりです。その要因のひとつは、「宮水」(みやみず)の発見です。

鉄分が少なくミネラルを適度に含んだ宮水は、軟水の多い日本の水の中では硬水の部類に属し、発酵力に優れています。

この宮水で仕込むと、濃醇で辛口の力強い味に仕上がることから「灘の男酒」と呼ばれ、絶大な人気を博し、やがて江戸の市場を独占するようになりました

~酒造株(酒造免許)制度の導入~

現在、お酒を造るには免許が必要です。酒税法に基づき、製造しようとする酒類の品目別に、所轄税務署長から製造免許を受けなければ製造は認められません。この免許制が導入されたのは、江戸時代でした。

1657(明暦3)年に、江戸幕府は「酒造株」という制度を制定しました。

酒造株とは、酒造用米数量を記載した鑑札で、これを持つ者だけが、決められた株高の範囲内でのみ酒造りが許可されたのです。

この酒造株制度の背景にあったのは、飢饉や米の豊作という食糧事情や米相場です。これらをコントロールするために、幕府は全国の酒造制限をおこなっており、その一環として導入されました。

江戸時代全期を通じて、合計61回もの制限令が出されたという記録が残っています。反対に、米が豊作のときなどは、お酒造りを積極的に奨励することもありました。江戸時代全期を通し、制限解除令は6回出されたそうです。

お酒造りには大量のお米が必要なので、幕府による酒造制限は仕方のないことだったのでしょう。けれど、造る側にしてみたら、その時々の事情に振り回され、思うようにお酒を造ることができない辛い時代だったのですね。