昔ながらの古い家

明治~大正時代(1868~1926年)

西郷隆盛の銅像

1853(嘉永6)年、アメリカ海軍のペリー提督が、4隻の黒船を率いて浦賀(神奈川県横須賀市)にやって来ました。日本中を震撼させた黒船来航です。

これにより、日本は開国を余儀なくされ、時代は激動の幕末へ。15代将軍・徳川慶喜は約260年にわたり掌握していた政権を朝廷に返上します(大政奉還)。

そして倒幕派は、江戸幕府を廃し天皇中心の新政府樹立を目指すことを宣言(王政復古の大号令)。その後の戊辰戦争で旧幕府軍に勝利し、明治政府を樹立しました。

明治時代の幕開けです。

~酒税の強化開始~

200年以上もの長きにわたって鎖国政策をとっていた日本。外国との接触を絶ったことにより、世界の進歩にも大きく乗り遅れてしまっていました。

明治政府は欧米列強に追いつくことを急務と考え、国を豊かにし、強い軍隊をつくる「富国強兵」の政策を掲げました。

この政策を実現するために、国は税金の徴収の強化に乗り出します。その筆頭に挙げられたのが「酒税」です。

当時の税金収入は地租(土地に対して課せられる租税)や酒税などに限られていたので、酒税が国の財源に占める割合はもともと高かったわけですね

まず、江戸時代に定められた「酒造株」(酒造用米数量を記載した鑑札を持つ者だけが、決められた株高の範囲内でのみ酒造りが許可される制度)は廃止されます。醸造技術と資本があるものなら誰でも自由にお酒を造れるようにしたのです。

そして、「造石税」(ぞうこくぜい)という新しい税制を1878(明治11)年に導入しました。この「造石税」とは、日本酒を搾った瞬間に税金が発生するというものです。

つまり、搾り終えて貯蔵している間にそのお酒が腐ってしまおうが、漏れて無くなったりしようが、搾った時点で課せられた税金を払わなければなりませんでした。

ちなみに、現在日本酒に課せられる税は「庫出税(蔵出し税)」(くらだしぜい)と呼ばれるもので、造ったお酒が売れて出荷する時点で税金が発生します。

また、1899(明治32)年には、よりスムーズかつ確実に税金を徴収するために、自家醸造によるお酒造りと消費を完全に禁止しました

昔から、全国の多くの農家では当たり前のように「どぶろく」がよく造られていました。この当時、自家醸造免許を持つ農家は100万軒以上あったそうですが、この政策により自家醸造は「密造」扱いとされ、一切許されなくなったのです。

現代でも、酒造免許を持たない一般の人が自家製のどぶろくを造ることは違法行為にあたります。酒税法違反として、罰金刑や、場合によっては懲役刑が科せられることもあるのです。

ちなみに酒造免許を得るためには、最低製造数量基準や一定の設備などの条件をクリアする必要があります。

日本酒の場合の最低製造数量は、年間60キロリットル。1.8リットル換算で33,000本にもあたる量なので、個人が酒類製造免許を得ることはまず不可能と言えるでしょう。

~日清・日露戦争の勝利は、酒税のおかげ~

明治政府は、このように酒税の改正や追加といった試行錯誤を繰り返していきながら、執拗に増税を図っていきます。

この時代の酒税の増収の勢いはすさまじいものがありました。酒税が国税に占める割合は、1881(明治14)年のころは17%であったのが、1899(明治32)年にはなんと約35%にまで跳ね上がります。地租を抜いて、国税収入のトップに立ったのです。

ちなみに、2016(平成28)年度は、酒税が国税収入に占める割合は、わずか2.2%です。

日本は、明治時代に日清戦争(1894~1895年)や日露戦争(1904~1905年)という大きな戦争を続けておこないましたが、これらの戦費の多くは厳しく徴収した酒税でまかなわれていたと言われています。

特に日露戦争では、戦時中に不足となった戦費を調達するために、急遽、酒税が追加徴収されたこともあるくらいです。

~酒税確保のために、科学的アプローチを導入~

明治時代は、科学が進歩し近代技術が躍進した時代です。欧米諸国の最新の技術や学問が積極的に取り入れられました。日本酒造りにおいても同様です。外国人醸造学者の手によって日本酒造りも見直されます。

科学的アプローチによる酒造りの分析や日本酒そのものの分析も進められました。ところで、「日本酒」という呼び名が生まれたのも明治時代だと言われています

お米と米麹と水のみを使って造る日本酒に興味を持った外国人の醸造家が、自分の国の醸造酒と区別するために「日本酒」と呼んだことが始まりなのだそうです。

酒税が国家収入の要であったこの時代、より安定した税収を確保するために、政府は1904(明治37)年に、大蔵省(現在の財務省)の管轄下に国立醸造試験所(現在は国税庁直属研究機関 独立行政法人酒類総合研究所)を設立しました。

古くより伝来していた技術のみに頼っていた当時の酒造方法を改良しさらに発展させるために設けられた、酒類の醸造技術を科学的に研究し、向上と発展に資するための国立の研究機関です。

国立醸造試験所は、1911(明治44)年には、第一回全国新酒鑑評会を開催しました。新酒を全国的に調査し、酒質の現状及び動向を明らかにし、品質の向上を図るのが目的です。

国立醸造試験所は、酵母や麹菌などの微生物の分野においても西洋の学問を早くから取り入れていました。鑑評会で優秀な成績を収めた酒蔵の酵母を培養して頒布したのもその一環です。

いわゆる「きょうかい酵母」がスタートしたのです。現代でもこの「きょうかい酵母」は、安定して良質のお酒を造ることができるとあって、多くの酒蔵で広く活用されています。

バイオテクノロジーの分野で現在日本は世界をリードしていますが、その発展へ大きく貢献してきたのが国立醸造試験所なのです

国立醸造試験所の第一工場として利用されていた、通称「赤煉瓦酒造工場」(東京都北区滝野川)は、2014(平成26)年に、文部科学大臣より重要文化財(建造物)の指定を受けました。

現在は、醸造に関するセミナーや実習、きき酒審査会、その他イベントの会場として活用されています。

また、一般公開に向けても準備中(2017年11月現在)ですが、毎年10月下旬から11月上旬に実施される「東京文化財ウィーク」の期間中の数日間は、内部が特別公開されています。

公開日には、ツアーガイドがあり、建物や日本の醸造技術などに関する詳しい説明を聞きながら中を見学することができます。日本酒の歴史について興味のある方は、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

~新しい酒造法「山廃酛」・「速醸酛」が誕生~

日本酒造りに科学的アプローチを導入し始めると、ものの数年で成果が表れ、次々と新しい技術が開発されました。中でも、「酒母(酛)造り」の分野で特筆すべき大発見がされています

酒母とは、蒸し米・米麹・水を用いて優良な酵母を培養したものです。大きな仕込み桶でお酒を仕込む前に、小さな仕込み桶でお酒を仕込みその中でアルコール発酵に必要な酵母を育てるのです。

しかし、この工程で日本酒造りの邪魔になる雑菌が繁殖しがちです。これらの余計な雑菌を駆逐して、優良なお酒の酵母だけを増やすためには、「乳酸」の力を借りる必要があります

その乳酸を得るために、昔は、空気中に存在する乳酸菌を取り込むという手法を用いていました

蒸したお米と米麹にお水を吸わせたものを桶に入れ、山のように積んでいきます。それを櫂(かい)という棒ですり潰し、溶かしていくうちに、すり潰したお米に乳酸菌が付着してきます。

この乳酸菌が乳酸を出してくれるというわけです。この山のように積まれたお米をすり潰す作業のことを「山卸」(やまおろし)と言います。深夜から早朝にかけて極寒の中で、大勢でおこなう必要があるたいへんな重労働です。明治時代の終わり近くまで、酒母はもっぱら、この「山卸」をおこなって造る「生酛」という製法がとられていました。

しかし、国立醸造試験所の設立からわずか5年後の1909(明治42)年、科学の力によって、この常識が覆されました

わざわざお米の山をすり潰すような面倒なことをしなくても、蒸し米を投入する前に、先に水の中で米麹の酵素を溶かしておけば(これを「水麹」と呼びます)、日本酒は同じ様に出来ることが解明されたのです。

つまりは、原料を投入する順番を変えるだけ。これだけで、生酛と遜色ないお酒が出来上がるということで、この製法が広まっていきました。

「山卸」という作業を廃止して(省略して)造ることから、山卸廃止→山廃(やまはい)と呼ばれました。こうして造った酒母のことを「山廃酛」と言います。

ところが、この大発見のたった1年後の1910(明治43)年に、さらに革新的な技術が開発されました。それは、酒母を造るとき、自然の乳酸菌に頼る必要がないという画期的なもの。

蒸し米・米麹・水のほかに、醸造用乳酸と呼ばれる液体状の乳酸を加えるというやり方です。安定した品質の酒母を生酛や山廃酛よりも短期間で造ることができる手法で、「速醸酛」と呼ばれます。

コスト面でも優れていることもあり、現在の日本酒の90%近くが、この速醸酛で造られています。速醸酛で造られる日本酒は軽快な酒質になる傾向があります。

それゆえ、濃醇な旨味と味わいの深さを求めて、創業以来「生酛」一筋を貫き続けている大七酒造(福島県二本松市)のような酒蔵も存在しています。

~木桶から、ホーロータンクへ~

江戸時代まで、日本酒の仕込みや貯蔵にはすべて杉で作られた木桶が使用されていました。しかし、大正時代の頃にホーロータンクが開発されました

ホーローとは、鉄などの金属の表面にガラスのコーティングをした素材のことです。木桶に比べて、微生物の働きをコントロールしやすいこと、管理・保管が容易であること、衛生面でも優れていると考えられたことなどから、どんどん普及が進んでいきました。

また、木桶に貯蔵しておくと木桶がお酒を吸収し、自然に目減りしてしまうことを防ぐ目的もあったようです。

しかし、こうして主流となったホーロータンクですが、木桶の良さも近年改めて見直されています。2008(平成20)年には、木桶という伝統文化を復活・伝承する活動をおこなうNPO法人「桶仕込み保存会」も発足しました。

この趣旨に賛同した酒蔵が、眠っていた木桶を使ったり、新しく桶を作ったりすることを始めており、木桶がさまざまな形で復活してきています。木桶でなければ作れない味わいが得られることも復活の理由のひとつでしょう。

~一升瓶の誕生~

たくさんの日本酒の瓶

現在、日本酒といえば、一升瓶で販売されることが多いですよね。実はこれは明治時代に始まった習慣なのです。

それまでは、桶や甕で量り売りをしていたのですが、酒屋の中には水増しなどの不正を働くところも少なからず存在していました。こうした不正を防ぐために誕生したのが一升瓶なのです。

また、瓶の方が衛生的であるということも普及を後押ししました。ちなみに、一升とは1.8リットルです。

余談ですが、近年では、四合瓶(720ミリリットル)の需要が増えてきています。一般家庭の冷蔵庫では一升瓶の保管が難しいですし、少子化にともなう少人数の家庭や単身世帯では全部飲み切るまでに時間がかかりますしね。

品質が変わりやすい生酒は特にフレッシュなうちに飲むのが良いとされ、油長酒造(奈良県御所市)は無濾過無加水の生原酒「風の森」を全量四合瓶での販売にすると2018(平成30)年1月に発表し、日本酒業界で大いに話題になりました。

~酒造好適米の開発~

日本酒造りの主原料であるお米にも変化の波が訪れました。現在日本酒造りに使っている酒造好適米と、普段私たちが口にしている食用のお米とは別物であると先にも触れました。この酒造好適米の開発が始まったのが、江戸時代も終わりに近づきつつある1860年頃からです。

酒造好適米の最高峰「山田錦」の母親である「山田穂」が見つかったのも江戸時代末期です。山田穂の由来については諸説ありますが、兵庫県美嚢郡吉川町(現・三木市)に住む田中新三郎がお伊勢参りの際に、伊勢山田で見つけた稲穂を持ち帰って栽培しお酒を造ってみたところ上質なものができたから、という説が有力です。「山田穂」は明治時代に入り日本酒専用のお米として認知されました。

また、「山田錦」と並び称される「雄町」(おまち)も、1859(安政6)年に、岡山で発見されました。見つけたのは、備前国上道郡高島村字雄町(現・岡山市中区雄町)の篤農家・岸本甚造です。美味しいお酒ができるお米だということで大いに人気を博しました。

「雄町」は栽培が難しいことから一時は生産量が激減し「幻の米」と呼ばれるようになりましたが、熱心な酒蔵の取り組みから再び生産量が増加し、近年では全国の多くの酒蔵が好んで使っています。

独特の甘みや膨らみを感じさせてくれる芳醇でコクのある味わいに仕上がることから、「オマチスト」と呼ばれる熱狂的なファンに支持されています。

1893(明治26)年には、阿部亀治という人が「亀の尾」(かめのお)を山形で発見しました。人気のブランド食用米であるササニシキやコシヒカリの祖先であり、また酒造好適米としても、多くのお米の親となっている品種です。

「亀の尾」は、戦後ほとんど作られなくなり、忘れられた存在となっていましたが、近年その優れた特性が見直されたことから再び脚光を浴び、作り手も増えつつあります。

「亀の尾」の復活劇は、漫画『夏子の酒』(尾瀬あきら著、講談社)のストーリーで扱っている、復活に取り組む幻の酒米のモデルにもなりました。

~ビールやワインが普及、「日本酒有害論」による日本酒の排除~

明治時代は、文明開化とともに日本人の生活様式が一変し、急速に洋風化していきます。

食文化も西洋のものが多く取り入れられ、それに合わせてビールやワインといった洋酒も台頭してきました。特にビールはよく飲まれていたようです。

初めのうちは、外国からの輸入品に頼っていたビールですが、需要が高まるにつれ、日本国内での醸造が盛んになっていきます。

1885(明治18)年には、キリンビールの前身である新会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」が誕生するなど、ビール会社の設立が相次ぎました。1900(明治33)年までに建てられた国内のビール醸造所は100を超えたそうです。

ワインも飲まれる機会が増えましたが、これは西洋の料理に合わせて、という理由だけではなかったようです。

実はこの頃、政府内で「日本酒有害論」なるものが出されました。政府に雇われていた、いわゆるお抱え外国人が、日本にもっとワインを輸入させようという目論見で唱えた説だったと言われています。

そして、これを真に受けた西洋かぶれの政府の要人により、身体に良くないとの理由で、宮中晩餐会をはじめとする皇室行事から日本酒の姿は消えていきました。また、宮廷が持っていた酒造免許を廃止したのもこの時代です。

ビールやワインの消費が増える一方で、日本酒は、その重過ぎる税金もあって、消費量がじわりじわりと減少していきました