歴史その5~昭和時代

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昭和時代① 戦前~戦中 (1926~1945年)

Age of war

~「山田錦」の誕生~

昭和に入り、酒造好適米「山田錦」が兵庫県立農事試験場で誕生します。安定した収量と酒造適性を認められ、1936(昭和11)年に奨励品種に指定されました。

酒造好適米の多くが10 年~30年で代替わりし、新しい品種が次々と開発されているなかで、「山田錦」は誕生から80年以上たった今もなお、質量ともに「酒造好適米の王様」として不動の地位にあり続けています。まさに、異例ともいえる寿命の長さです。

ちなみに、「山田錦」はすぐに酒造好適米のスターに躍り出たわけではありませんでした。

兵庫県で最大の日本酒の産地である灘の酒蔵が「山田錦」を麹米として使おうとしなかったのです。麹米とは、麹造り用のお米のことで、日本酒の味を決定づける、言わば日本酒造りの根幹をなす大事なお米です

江戸時代以来、灘の酒蔵では、麹造りには「北摂米」(ほくせつまい)と呼ばれる大阪北部産のお米を使っていました。日本酒は、職人の技術に依存するところが大きいため、使い慣れたお米から新しいお米に変更することを嫌がったのです。

しかし、やがて戦争が始まると、お米の売買は統制されるようになり、県外から買い付けることができなくなってしまいました。そこで仕方なく「山田錦」を使ってみたところ、予想以上に上質の日本酒を造ることができたのだそうです。戦争が起きていなかったら、もしかしたら「山田錦」は今のような地位には就いていなかったかもしれませんね。

余談ですが、この「山田錦」の父親である「短棹渡船」(たんかんわたりぶね)は、日本からの移民によってアメリカに持ち込まれ、カリフォルニア米のルーツになったというエピソードが残っています。つまり「山田錦」とカリフォルニア米は、親戚関係にあるわけなんですね。

~竪型精米機開発で始まった「吟醸酒」造りへの道~

昭和時代は、日本酒造りにおける技術がさらに発展していきました。

特筆すべきは、竪型精米機(たてがたせいまいき)の開発です。金剛ロールと呼ばれる、回転する円盤状の大きな砥石でお米の表面を少しずつ削る機械です。

この竪型精米機が発明される以前は、杵でつくようなアナログな技術しかなかったので、お米を削れるのはせいぜい10~30%くらいでした。しかし、この竪型精米機ができたことで、30%以上削り取ることができるようになったのです。

のちに、高級酒の代名詞とも言うべき吟醸酒(お米を60%以下に精米して造る日本酒)が誕生する大きなきっかけとなった発明と言えるでしょう。

しかし、後で述べるように、戦争による米不足などもあり、日本酒は次第に受難の時代へと突入していくのです。

~戦争勃発による酒税徴収の強化~

1937(昭和12)年の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに、日本関東軍と中国国民党軍は全面戦争へと突入しました。日中戦争の始まりです。

日本は北京、天津、上海、南京を次々に制圧。傀儡政権を樹立した南京を拠点に中国各地へ進出を果たし、勢力を拡大していきました。

これを警戒したアメリカやイギリスは日本を強く非難し、経済制裁を加えます。こうして日本は日独伊三国同盟を根拠にアメリカやイギリスなどの連合国との戦争を決定。太平洋戦争へと突入していったのです。

巨額な戦費を調達するために、政府は日本酒に対する増税に着手します。日清戦争や日露戦争の際にも同じようなことをやっていましたね。

まず、1940(昭和15)年に、「造石税」(ぞうこくぜい)に加えて、「庫出税(蔵出し税)」 (くらだしぜい)を併課するようになりました。

前にも触れましたが、造石税とは、日本酒を搾った瞬間に税金が発生するというもので、庫出税は、造ったお酒が出荷される時点で税金が発生するというものです。

その後、1943(昭和18)年になると、庫出税に級別課税制度を採用。日本酒を一級から四級に分類し、それぞれに異なった税率を適用しました。

1944(昭和19)年には造石税を廃止、庫出税に一本化します。

そして、戦況が悪化する中、日本各地の酒蔵は統合や廃業に追い込まれていきます。1930(昭和5)年に約8,000軒あった酒蔵は激減し、4,000軒近くにまで減ってしまいました

空襲などで焼かれた酒蔵は200軒以上にものぼり、多くの日本酒が失われました。お酒造りの担い手である杜氏や蔵人もたくさん戦死してしまいます。

~「金魚酒」の時代へ~

「金魚酒」について知っているのは、お年を召した方か、よっぽど日本酒に詳しい人くらいかもしれません。

「金魚を入れて飲む日本酒」のことではもちろんありません。「金魚が泳げるほど薄い日本酒」のことを指す表現なのです。

昭和初期の日中戦争や長引く不況によって、日本の物資不足の度合いはその深刻さを増していました。お米は最優先で軍需用に回されます。

お酒造りに使えるお米はどんどん不足し、当然ながら生産量も減っていきました。そんな中で、日本酒を水増しする酒蔵が現れました。「金魚酒」の誕生です。

もっとも、いくら薄い日本酒でも、さすがに金魚が泳げるほどではなかったとは思いますが、人々はその水っぽさを揶揄してこう呼び始めました。

日本酒の需要と供給のバランスをとるための苦肉の産物だったのでしょうが、こうしてお酒好きにとっては受難の時代が始まっていったわけです

 

昭和時代② 戦後~高度成長期~バブル期(1945~1989年)

High economic growth

~日本酒の評価を下げた「三倍増醸酒」の功罪~

「三倍増醸酒」という言葉を聞いたことはありますでしょうか?もしかしたら、20代などの若い世代の人たちの中には、初耳だという方も少なくないかもしれません。

しばしば「三増酒」と略される「三倍増醸酒」は、その名のとおり「三倍に増やして造られたお酒」のことです。できあがった日本酒に、二倍の醸造用アルコールを加えて薄め、結果的に三倍の量のお酒を造ることからそう名付けられました。

しかし、当然のことながら、そんなに大量の醸造用アルコールで薄めてしまっては、せっかくの日本酒の味わいが失われてしまいます。そこで、このお酒を「日本酒らしい味」にするために、さまざまな添加物を加えたのです。

具体的には、ブドウ糖や水飴などの糖類と、グルタミン酸やコハク酸や乳酸などの調味料です。なんだか、すごく不自然で、怪しい感じがしませんか?

この「三倍増醸酒」方式では、少ないお米からたくさんのお酒を造ることができます。戦後の日本は、切実な食料難に見舞われていました。こうした背景から、「三倍増醸酒」は1949(昭和24)年に正式に日本酒として認められるようになりました。

もともと戦後の米不足から始まった「三倍増醸酒」造りですが、お米の供給が正常化した後も、長い間続けられていきました。それどころか、2006(平成18)年に廃止されるまで、日本酒の主流だったのです。

安いコストで大量に生産できるのだから無理もないことかもしれません。しかし「三倍増醸酒」は、糖類を添加するため甘くてベタベタとした味であったり、また頭痛が起きたり二日酔いになりやすいとして、日本酒の評価を下げる原因を作ったと言われています。

ちなみに、醸造用アルコールを添加する手法が編み出されたのは、日本が1932(昭和7)年から1945(昭和20)年の間統治していた、現在の中国東北部に存在した満州国でした。

満州国には多くの日本人が入植しましたが、寒冷の地であるのと、若い入植者が多かったことから、日本酒の1人あたりの消費量は、日本国内と比べて二倍にもなりました。しかし、日本からのお酒の供給では間に合わず、満州国内でも日本酒造りが始まりました

けれど、現地の水が非常に硬水であったことや、満州産米はお酒造りに向かなかったこと、それに酒造設備も貧弱で、腐造など品質に問題のある日本酒が後を絶ちませんでした

そこで、満州独自の酒造りの研究が進められます。そうして開発されたのが、醸造用アルコールを添加する方法だったのです。これが、のちに「三倍増醸酒」が誕生するきっかけとなりました。

「三倍増醸酒」は、今の豊かな日本では考えられない、食べるお米すら満足にない時代に生まれたお酒です。その後、日本酒の評価を下げる原因を作ったのは確かかもしれません。

しかし、戦争がようやく終わり、ボロボロに傷ついて命からがら日本へ戻った兵隊さんや、復興のために必死の思いで働いてきた日本人にとって、救いのお酒だったことは事実でしょう。

酒蔵がお米だけで醸す純米酒をふんだんに造ることができ、消費者がそれを存分に味わうことができるのは、戦争が終わり平和になった証拠です。

そのような現代に生きる私たちは、本当に恵まれているのですね。

~四季醸造の復活~

1961(昭和36)年、日本酒の四季醸造が復活します

四季醸造とは、読んで字のごとく、四季を通じて一年中日本酒を造ることです。日本酒はもともと、神祭りなどが行われるたびに、年間を通じて造られていました。

しかし、暖かい季節には発酵途中のもろみが腐ってダメになってしまうことも多くあったため、江戸時代の半ば頃より、冬期に酒を造る、いわゆる「寒造り」への集中化が進んだのです。

しかし、戦後になると酒造設備のクォリティがどんどん進化します。常に酒造施設の温度や湿度が一定になるように調整することが可能となり、年間を通して上質な酒造りを安定してできるようになりました。

四季醸造の復活によって、季節や催事に合わせた日本酒が供給できるようになり、暑い夏であっても、しぼりたての生酒(低温殺菌していない日本酒)を冷やして飲むことも可能となったのです。

この四季醸造に、全国にさきがけて積極的に取り組んだのは、「月桂冠」ブランドでお馴染みの大手メーカー・月桂冠株式会社(京都府京都市)だと言われています。

~桶売り、桶買い~

昭和40年代の頃から、「桶売り、桶買い」という行為が商慣習として横行するようになっていきました。

桶売り、桶買いとは、主に地方の小さな酒蔵が、自分のところで造った日本酒を自社商品としては販売せずに、桶(タンク)ごとそのまま、大手酒造メーカーに販売する取引のことを言います。

買い取ったメーカーは、その桶の日本酒をそのまま、あるいは別の日本酒とブレンドして、「自分のところの日本酒」として商品化して販売するのです。

この当時、酒造好適米は、1936(昭和11)年の酒造高を基準にして酒蔵に配給されていました。そのため、大手メーカーでは、販売力に比べて配給される酒造好適米の量が不足しており、足りない分を桶買いで補う必要があったことから始まりました。

また、前にも触れたように、日本酒は瓶に詰めて出荷した時点で税金が発生します。桶売り、桶買いは、商品としての流通ではなく製造業者同士の売買であるため、この時点では税金の対象とはなりません。課税対象になるのは、買い取った側が商品として出荷した時点というわけです。

このため、桶売り、桶買いは、通称「未納税取引」とも呼ばれていました。節税テクニックとしても重要だったと言えるでしょう。全量桶売りをしていた酒蔵も多くあったようです。

現在有名になった地方の有力な酒蔵でも、昔は桶売りをしていたところがいくつも存在しています。桶買いする大手メーカーの中には、量や価格に重きを置くところもありましたが、品質を追求する大手メーカーも確かに存在しました。

そういった高い質にこだわる大手メーカーの要求にこたえることで、日本酒の製造技術が向上し、実力をつけていったからこそ、現在の地位を築いていった原因なのかもしれません。

この桶売り、桶買いという商慣習は、日本酒の消費量の低下や、酒造好適米が配給制から自主流通米制に変更になったためメリットが少なくなったこと、地酒の個性化が求められるようになったことなどの原因が重なって、しだいに衰退していきました。

桶売りに頼りきっていた地方の中小の酒蔵の多くは経営不振に陥り、倒産が相次ぎました

~高度成長期、日本酒の消費量がピークに、そして減少へ~

高度成長期にかけて、好景気も相まって、日本酒の消費量は右肩上がりで増加していきました。先ほど書いた「四季醸造」や「桶売り、桶買い」も、大量生産を後押ししました。

そして、1973(昭和48)年にピークを迎えます。この年の課税数量は176万キロリットルにも及びました(ちなみに2015(平成27)年の課税数量は約55万キロリットルと、3分の1以下です)。

この1973(昭和48)年を境に、消費者の日本酒離れが進み、日本酒市場は低迷していきました。その原因は、大きく分けてふたつ考えられます。

まずひとつめは、日本酒以外のお酒の選択肢が広がったことが挙げられます。ビールやウィスキー、カクテル、焼酎、チューハイ、ワインなどの消費が拡大していったのです

ウィスキーを炭酸ソーダで割るハイボールは、サントリーの仕掛けもあって近年人気が復活しましたが、最初のブームが起きたのは1955(昭和30)年頃からで、次第にウィスキーの人気が高まっていきました。

また、1982(昭和57)年には、ウィスキーではなく焼酎を炭酸ソーダで割るチューハイも登場し、大ヒットとなりました。焼酎のハイボールだから、チューハイというわけなんですね。

ちなみに、缶チューハイ「サントリー樹氷」は「タコなのよ、タコ。タコが言うのよ。」と田中裕子が言うCMを打ったところ大評判を呼び、このセリフは当時の流行語にもなりました。

そして、ワインもそのオシャレなイメージも受けて、次第に日本人の間で浸透していきました。バブル期にはボジョレーヌーヴォーが一大ブームに。日本は日付が一番早く変わるので、ボジョレーヌーヴォーが世界で一番早く発売されることもあり、お祭り感覚で大盛り上がりを見せました。

そしてふたつめに考えられる要因としては、若者を中心に日本酒に対するイメージがダウンしたことも挙げられます。オシャレで洗練された雰囲気の洋酒が次々と台頭してくる中で、日本酒は「古くさく、オヤジっぽい飲み物」というイメージを抱く若者が増えていきました

また、「三倍増醸酒」も日本酒の評価を下げるきっかけになったと言われています。戦後の米不足による苦肉の策で造られたはずなのに、米不足が解消された後もずっと生産を続けていることから、日本酒メーカーおよび日本酒そのものに対する不信感が世間で芽生えたのでしょう。

また、糖類を添加するため甘くてベタベタとした味であったり、頭痛が起きたり二日酔いになりやすいお酒だという批判も数多くありました。

そして、「桶売り、桶買い」も消費者からするとなんだか胡散臭く感じられ、このような商慣習が横行している日本酒業界に対し、自分たちは騙されているのではないかというネガティブな印象が広まっていったのです。

このように、昭和時代の高度成長期にピークを迎え、そして低迷していった日本酒ですが、その後平成の世に入ると、日本酒業界は大きな変革を迎えます。新しい日本酒の時代へと大きく舵を切り、動き出していくのです。