歴史その2~平安時代から室町時代

Heian period

平安時代(794~1185年)

Byodo-in temple

~『延喜式』に見る、平安時代のお酒造り~

794年に桓武天皇が京都の平安京に遷都しました。平安時代の始まりです。

この当時、宮中でおこなわれていた儀式や行事、制度や法律などを詳しくまとめるという国家事業がありました。そうして平安時代初期(905~927年)に20年以上もの歳月をかけて編纂されたのが、『延喜式』(えんぎしき)という本です。

中学や高校の日本史の授業で習って、タイトルについては聞き覚えがあるという方も多いのではないでしょうか。

『延喜式』は全部で50巻から成る大著ですが、ほぼ全巻が散逸することなく伝わっており、古代の政治を把握するうえできわめて貴重な史料とされています。

この本の項目のひとつである「造酒司」の中で、当時の朝廷におけるお酒造りについての詳細が記されています。たとえば、「米」「麹」「水」でお酒を仕込む方法や、お燗に関する内容、また、10種類にも及ぶいろいろなお酒についても知ることができます。

その中でも重要なのが、「しおり」という酒造法で醸造した「御酒」(ごしゅ)です。スサノオノミコトが、人間を食らう大蛇ヤマタノオロチを退治するために「八塩折(やしおり)の酒」を用意した、というお話を紹介した際にも触れた製法です。

しおりとは、いったん発酵の終了した醪を濾し、これに、さらに蒸したお米と米麹を入れて再び発酵させて濾す、という工程を何度も繰り返す方法で、アルコール度数が高くて甘いお酒を造ることができます。

このしおりは、現在の「貴醸酒」(きじょうしゅ)の原型となるものです。貴醸酒とは、仕込み水の代わりに一部日本酒を加えて造られるお酒で、甘く濃厚でとろりとした味わいが特徴的です。

「貴醸酒」が誕生したのは1973年。ワインの帝王とも呼ばれる「貴腐ワイン」(完熟した葡萄に貴腐菌がついて出来る特殊な葡萄「貴腐葡萄」で造られる、濃厚な甘みと極上の風味が特徴の高級ワイン)に比較される味わいを持つ高級な日本酒であるとして、貴醸酒という名前がつけられました。

~寺院で造られる「僧坊酒」の発展~

平安時代初期までは朝廷の役所である造酒司が中心におこなっていたお酒造りですが、貴族同士の争いが増え国が混乱していったこともあり、次第に造酒司で働いていた技術者たちが流出し、民間へと酒造技術が移行していきました。

そうしてお酒造りの中心となったのが、日本各地の大寺院だったのです。この大寺院で造られていた日本酒のことを総称して「僧坊酒」(そうぼうしゅ)と呼びます。

この僧坊酒のクォリティは素晴らしいもので、非常に高い評価を受けていました。こうして各地の大寺院は僧坊酒によって強力な財源を得ることとなり、大きな勢力を持つようになっていったのです。

数ある僧坊酒の中でもとりわけ有名なものが、大阪府河内長野市の天野金剛寺で造られた「天野酒」(あまのさけ)、奈良県奈良市の菩提山正暦寺で造られた「菩提泉」(ぼだいせん)です。

僧坊酒は今では文献の中にその名が残っているばかりですが、実は、現代でも僧坊酒の醸造技術を引き継ぎ、酒造りを行っている酒蔵も存在しています。

それは、大阪府河内長野市の西條合資会社です。1971(昭和46)年に、天野山金剛寺の好意と地元の人々の支援もあって、伝説の「天野酒」の復活を見事成功させました。

「天野酒」は、太閤・豊臣秀吉もこよなく愛していたお酒で、かの有名な「醍醐の花見」(豊臣秀吉が700本の桜を醍醐山に植えさせ、1,300人もの客を招待した大宴会)の時にも持ち込んでいたと言われています。濃醇でかなり甘口な味わいが特徴です。

それにしても、お酒を飲んではいけないという戒律があるはずのお坊さんが日本酒を造っていたとは驚きですよね。

実は、こういった建前とは裏腹に、お坊さんもこっそりお酒をたしなんでいたそうです。もちろん、お酒という直接的な言葉は避けて、代わりに「般若湯」(はんにゃとう)という隠語を用いていました。

ちなみにこの「般若」とは「悟りに至る知恵」ということであり、つまりは般若湯とは「知恵の湧きいずるお湯」といった意味になります。なんとも無理やりな感じも受けますが、厳しい修行で精神を鍛えたお坊さんといえども、やっぱりお酒の美味しさには抗えなかったのでしょうね。ちょっと親しみを覚えます。

お坊さんが造るお酒と言えば、ワインがお好きな人なら、ブルゴーニュワインを思い出すのではないでしょうか。

フランス北東部に位置するブルゴーニュ地方で造られるワインは、世界でもっとも歴史の古いワインのひとつです。

辛口の白ワインの代名詞とも言えるシャブリ地区や、ボージョレ―地区などを抱える、フランスが誇る銘醸地です。

このブルゴーニュワインの礎を築いたのが、キリスト教の僧侶達なのです。岩だらけの荒れ地を開墾し、ふさわしいブドウの品種を選び、上質のワインを造っていました。

彼らは、約1,000年前にはすでに土壌や気候の違いによってワインの味わいに違いが出ることを見抜いており、「クリマ」という区画に分けて畑の境界を定めることを始めました。このクリマは、2015年にユネスコ世界遺産として登録されています。

~諸白・片白造り~

現代の日本酒の原型ともいえるお酒が誕生したのもこの頃です。それは、奈良の寺院が開発した「南都諸白」(なんともろはく)です。

「諸白」とは、麹米(米麹を造るために使用するお米)も、掛米(蒸した後に冷まされて、直接もろみに仕込まれるお米)も精白してお酒を造る製法です。「諸」(=両方)に「白」米を使うことからこう呼ばれています。

諸白は現代の清酒に近い、透明で雑味のないお酒であり、当時は大変貴重な高級品でした。この時代はまだ精米技術も発達しておらず、生産量が限られていたため、実際に口にできたのは有力な貴族などの特権階級だけでした。

「諸白」に対して、麹米には精白しない玄米を用い、掛米のみ精白したお米を使うことを「片白」(かたはく)と言います。「片」方だけに「白」米を用いることからこの名がつけられました。

こちらは清酒ではなく、当時主流だったにごり酒です。一般庶民が清酒を味わえるようになったのは、ずっと後の時代になってからでした。

 

■鎌倉時代(1185~1333年)

Kamakura Period

~造り酒屋の台頭~

鎌倉時代に入ると、都市化が進み、商業が盛んになっていきます。物々交換から、貨幣経済へと移行していったのがこの時代です。

そして、朝廷によるお酒造り事業はますます縮小していき、この頃になると、寺院だけではなく一般の人々も積極的にお酒を造るようになっていきました。いわゆる「造り酒屋」の台頭です。

貨幣経済の浸透が、自ら造ったお酒を商品として売り、客が買うという行為をさらに後押ししていきました。

造り酒屋業の中心地となったのは、京都です。京都の「柳酒屋」「梅酒屋」などが大手の酒屋として記録に残っています。ただし、大手と言っても、生産量は決して多くはありませんでした。

記録によると、大手の造り酒屋でも、2石(360リットル)から3石(540リットル)程度の甕を土間に並べて造っていた程度だったそうです。大量生産が可能になるのはまだまだ先の話です。

~禁酒令の発動~

造り酒屋が台頭し、お酒の流通量が増えたこと自体は歓迎すべきことですよね。

それまで庶民は「ハレの日」(冠婚葬祭など特別な行事のある日)だけにしか飲めなかったお酒が、「ケの日」(特に行事のない通常の日)にも飲むことができるようになったわけですから。

しかし、決して良いことばかりではなく、次第に困った問題が起きてきました。そのひとつが、武士の堕落です。

お酒を飲みすぎて仕事をしなくなったり、挙句の果てには酔っぱらった勢いで殺傷事件を起こしたりする者が現れてきたのです。武士は刀を持っているのだから、恐ろしいことこの上ないですよね。凶器を持っての深酒は、飲酒運転並みに危険な行為です。

こういった武士による度重なる愚行に業を煮やした鎌倉幕府は、1252(建長4)年、禁酒令を発布しました「沽酒の禁」(こしゅのきん)と呼ばれるものです。

沽酒とは、お酒を売買することを意味します。つまり、飲酒を完全に禁止するものではなく、お酒の売買を禁止することが目的の法律です。

これにより、お酒を造ってよい量は、自分の家で飲むのに必要な分に制限されることになりました。具体的には、一軒につき醸造・保管用の甕(かめ)1個分しか造ることができなくなったのです。

もともと造ってあったお酒も対象なので、甕1個を残して残りのものはすべて破壊されました。その破壊は徹底的におこなわれ、鎌倉市だけでも、3万7000個を超える甕が壊されたと伝えられています。

甕の容量は、だいたい2升(3.6リットル)から4升(7.2リットル)だったと推定されるので、驚くべき量ですね。この沽酒の禁によって、酒造産業は非常に大きなダメージを受けました。

このとき壊された甕の破片は、鎌倉の由比ヶ浜あたりで今もたくさん見ることができるそうです。興味がある方は、訪れてみてはいかがでしょうか。

せっかくのお酒を没収されてしまった先人たちの無念を思い、日本酒を味わうというのもなかなか面白そうです。その場合はもちろん車の運転は厳禁。江ノ電に乗って行きましょう。

 

室町時代(1334~1493年)

Muromachi Period

~一転、お酒造りが再び活況に~

1334年、足利尊氏が京都に新しい幕府を開きました。室町幕府の誕生です。この時代になると、お酒に関する方針が180度変更されました。

一転して、お酒を造り、売買することを幕府が奨励し始めたのです。造り酒屋は有力な財源となりうると判断した幕府は、酒屋に特権的な立場を与え、強力な保護を与えることにしたのです。

その見返りに、酒屋からは「酒屋役」(さかややく)という名の税金を取り立てることを始めました。その額は酒壺1つに対し、200文。この税収は、幕府にとって極めて重要な財源となりました。

こういった幕府による振興策もあり、造り酒屋は京都を中心に大いに発展していきました。造り酒屋の名簿を記した史料には、1425年頃には「洛中洛外の酒屋」は342軒にも達していたという記録が残っています

その中には、300石ものお酒を造るところもありました。300石とは、54,000リットル。一升瓶で30,000本にもあたる量です。造り酒屋の大規模化と発展ぶりがよくわかります。

ところで、この当時の大規模な造り酒屋の跡が、京都駅の1キロ北の場所で見つかっており、発掘調査結果が2005(平成17)年に公開されました。

その報告によれば、この跡は、南北16メートル×東西14メートルという広大さです。そこからは、お酒造りに用いる甕を据え付けた穴(直径60センチ、深さ40センチ)が200基以上も見つかりました。

甕の底面が残っているところもあり、その形状とサイズから、甕は高さ80センチ、胴周りの直径が80センチで、だいたい250リットルのお酒が入る大きさだったと推定されています。また、近くでは井戸の跡も19基見つかりました。

~造り酒屋が大躍進~

これらの造り酒屋は幕府の庇護のもと資本力をつけていき、次第に、その多くは土倉(どそう)という名の金融業にも手を広げるようになっていきました。そのような酒造業者と金融業を兼ねているものを「土倉酒屋」(どそうさかや)と呼びます。

土倉から徴収する「土倉役(倉役)」は、前述した「酒屋役」と並び、幕府にとって有力な財源となりました。

また、造り酒屋は麹造り業にも進出していきました。この当時、麹造りは平安時代に北野社(北野天満宮)の神人(じにん)が結成した「麹座」が一手に引き受けていました。

麹座は、15世紀の初め頃から、幕府の権威を背景に、麹の製造・販売権を独占していたのです。独占権を握っているのを良いことに、麹には高い値段を設定していたようです。

この独占ぶりは大変なもので、無断で麹を製造・販売した造り酒屋は、幕府の役人の面前で製造現場を破壊されたという記録も残っています。

しかし、15世紀中頃から次第に幕府の権力が低下するにつれ、麹座の独占状態に異を唱える延暦寺などの寺院や造り酒屋が、幕府や麹座に対決姿勢を強めていくようになっていきました

こうした背景から、幕府は1444(文安元)年、北野社の独占権を撤廃しました。すると、麹座は自社に立てこもって抗戦を開始しますが、この動きを幕府は徹底的に弾圧します。

この出来事は「文安(ぶんあん)の麹騒動」と呼ばれ、北野社一帯が炎上し、死者数40人という大きな犠牲を払った大事件になりました。こうして麹座の独占権は崩れ、その後の麹造りは酒造業がおこなうようになったのです

~今の清酒造りの原型が確立~

室町時代は、現在の清酒造りの原型がほぼ整った時代です。

室町時代初期に記された、現存する日本最初の民間の酒造技術書である『御酒之日記』(ごしゅのにっき)には、乳酸菌発酵の応用や木炭による濾過についての記載がされています。

これらの技術については門外不出とされ、本の冒頭には「能々口伝(よくよくくでん)、可秘(ひすべし)、可秘」と書かれています。後継の技術者たちに徹底した守秘義務を課していることから、よほど先進的かつ貴重な技術だったのでしょうね。

また、奈良の興福寺の僧侶たちが記した日記である『多聞院日記』(たもんいんにっき)にも、この時代の酒造りについて詳しく記されています。

今日の「三段仕込み」の原型となる手法や、諸白造り、火入れ、乳酸菌発酵などといった現代の日本酒造りでも用いられている方法が数多く記述されており、当時の酒造技術のレベルの高さがうかがえます。

特に、火入れに関する記事は驚くべきものがあります。火入れとは、お酒を低温で殺菌することを言います。60~65℃くらいのお湯で、間接的に30分ほど加熱します。

これにより、お酒の中に残った酵素の働きを止め、お酒の香りや味わいを損なう菌を殺すことができるのです。

この低温殺菌法については、フランスの細菌学者パスツールが「発見」したとされ、発見者の名前を取って低温殺菌のことをpasteurization(パスツライゼーション)と呼んでいます。今も牛乳などでこの低温殺菌法が用いられています。

パスツールがこの発見をしたのは1865年でした。しかし、『多聞院日記』が記されたのは室町時代。パスツールの発見よりも数百年も前に、日本で同じ方法がすでにおこなわれていたことをこの本は実証しているのです

化学の知識などなかったにもかかわらず、経験的にこのような極めて高度な微生物の制御技術を有していたとは、驚きですね。

先人達のたゆまぬ努力と創意工夫のおかげで、現在のような美味しい日本酒が飲めるようになったのです。尊敬と感謝の念を禁じえません。本当にありがたいことですね。

ところで、この『多聞院日記』には、奈良で10石(1,800リットル)が入る仕込み桶が開発されたという記述も見ることができ、この時代にお酒の大量生産が可能になったことがわかります。室町時代は、公家も武家もこぞって酒宴を開いていました。

お酒の消費量は鎌倉時代の比ではないほど多かったそうですが、これも酒造技術が進歩して良質のお酒を大量に生産できるようになったおかげなのでしょうね。